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鋳鉄管からダクタイル鉄管へ

第1章 金属の起源と初期の鋳鉄管
1.金属の起源
 われわれの先祖は、いつの頃から金属の存在を知り、どのようにしてこれを利用するのを知ったのであろうか。
 何事によらず、その歴史を尋ねることは興味深いことであり、また、必要なことでもある。たとえば、大海に乗り出した船員が自分の位置を定め、進むべき航路を知るためには、経過してきた航跡を知らねばならないのと同じようなことであろうか。
 近代文化の基礎となった古代文明をまず開いたのは、豊かな気候と水に恵まれたエジプトであろう。有史の当初からすでにエジプト人は金属を知っていたが、最古の金属製品で現在保存されているのは、スネフル王(BC2600年頃)の小さな銅笏である。しかし、王の時代よりも遥かにさかのぼる太古の自然人の時代から銅は利用されていたと考えられる。なぜならば、元来、銅は自然銅の形で存在できたし、のちに容易に鉱石から分離できることも知ったはずであろうからである。
 考古学者の推測では、太古の自然人が炊事用窯を築いた岩石の中に、たまたま銅鉱石が混ざっており、熱によって溶け出したことから溶解という秘訣を知ったと想像される。
 また、一説には陣営の焚火の周囲を石で囲ったところ、偶々銅鉱石の破片が焚火中の木炭で還元されて金属銅が分離されたとも考えられる。あるいは山火事という説もある。いずれにしても、流れ出した溶銅が岩石あるいは土砂の凹みに溜り、自然にその形を形成したのを見て、あらかじめ型を用意すれば望みの形の物ができることも知ったのであろう。
 ちなみに純銅の溶融温度は1083℃と比較的低く、しかも他の金属、たとえば錫などが混じるとさらに低くなる。これが青銅といわれるものである。
 現在考古学者の多くは、石器時代の次に銅(または青銅)時代があり、その次が現今の鉄時代がきたと考えている。

ピラミッドの石畳からナイフ

 すでにBC3000年頃、硬い花崗岩をもってピラミッドが建造されている。ギリシャの歴史家ヘロドトスは、ピラミッドの工事に鉄製の道具が使用されたに違いないと推定した。果たせる哉、19世紀にイギリスの調査隊がクフ王のピラミッドの礎石の一部を爆破して調べたところ、石畳の間から鉄製のナイフが発見された。分析の結果、錬鉄であることがわかった。鉄は自然鉄としては産出しない。鉱石を半溶融状態にして取り出した海綿鉄を何度も赤熱しては鍛える方法で造ったのであろうから、当時すでにかなりの技術があったものと考えられる。

アッシリア王宮の宝物
 ピラミッド築造からさらに時代が下ってBC700年頃に造営されたアッシリア王宮の遺跡からは、160トンにも及ぶ鉄製の宝物が発見された。中には刀剣、甲兜、鉄器、鉄鎖、鋸なども発見されている。

2.初期の鋳鉄
 鉄が自然鉄としては存在しないことは先にも述べた。
 鉱石から鉄を取り出すことは銅より遥かにむずかしい。人類が初めて鉄を知ったのは隕鉄であろうとするチンメルという学者の説もある。いずれにしても有史以前から人類が鉄を知っていたことは確実であるが、どうして知ったかはなお不明である。
 ところで先に鉄といい、あるいは錬鉄といい、今また鋳鉄なる語が出てきた。一般に鉄といえば総称することが多い。しかし厳密にはそれぞれ特性があり、区別して使われる。そこで稍ややこしいが“相”の話をしておかねばならない。
 人には人相というものがあって、初対面の人でも顔形、目鼻立ち、眉や皺などの特徴からなんとなくその人の性格が浮かんでくることが多い。その人相も境遇の変化や結婚によっても変わることもある。大学の冶金学科に入学した最初の講義が金相学だったので、金にも相があるのかと思ったことだった。金相も人相も同じようなことだ。ひと口でいえば、各金属元素の分子の特性やその配列の仕方、それが低温や高温でどう変わるか、固体と溶融状態ではどうなるか、他の元素と混じったり、結びついて合金になればその特性や挙動がどうなるかなどを究明する学問である。
 その金相学の観点から、いわゆる鉄というものを見てみよう。

鋳鉄と鋼の区別
 ひと口に鉄といっても各種の不純物を含んでいる。たとえば炭素、リン、硫黄、銅、珪素、マンガンなどである。なかんずく炭素はもっとも重要な役割をもっており、鉄材の分類の基本となっている。炭素を1.7〜4.5%含有しているものを鋳鉄、炭素を0.05〜1.7%含むものを鋼と呼んでいる。もっとも炭素1.7%を境にして、性質が急激にまったく一変するのではなく、また、他の元素の存在によっても多少影響されるから、厳格な区画ではない。鋳鉄と鋼のそれぞれの特性の違いの中で、もっとも特徴的な点は鋳鉄の方が少し溶融温度が低く、鋳造しやすいということである。

中世における大砲と鋳鉄管
 鋳鉄鋳物は初めの頃は主として戦闘用の小道具類の製造に使われた。その後次第に大型化し、1311年にドイツで、1345年にイギリスで本格的な大砲と砲弾が鋳鉄で鋳造された。続いてほぼ同時期に鋳鉄管が鋳造されたが、はっきりしているものでは1455年にドイツで水道管として布設されている。大砲も鋳鉄管も大きな中空円筒であり、同じ鋳造技術で造られたであろうことは容易に想像できる。むしろ鋳鉄管の方が薄肉で細長いだけに高度の技術を要したであろうと考えられる。したがって歴史的には兄弟のようなもので、一方は戦争目的であり、一方は平和目的であるだけの違いであった。歴史はめぐるといわれるが、日本で明治25年に起工した大阪市水道では大砲を造る設備があるからとて大阪砲兵工廠に大量の鋳鉄管を注文している。また、その頃鋳鉄管の製造を手がけた久保田権四郎氏は砲兵工廠の技師を招聘している。両者の間に堺の鉄砲鍛冶の伝統技術が生かされているのではなかろうかとも思う。
(茶話)大砲のこと
 大砲の鋳造はそれまでは主に青銅をもってされていた。しかし材質的に強度が不足しており、代って鋳鉄製が現われた。当時の戦史に次の一文がある。「いかなる城壁も鉄の弾丸には敵わなかった。例えば4メートルの厚さをもった城壁や、岩壁上の近づき難い位置などのために、中世には不落と思われた城砦も、ひとたび鉄製の砲弾が城壁を掠めて通ったならば、幾日ならずして廃墟と化して…」とある。今日ヨーロッパ各地の諸城を巡ってみても、大抵の城には眼下の敵を見おろせる位置に大砲が据えられている。多くは後世のものが多いが、中にはみごとな装飾や城主の名を鋳出した古い鋳鉄製のものも見ることができる。先年私がエジンバラ城で撮った写真をあげてみる。
写真1 エジンバラ城の大砲
 次に中国の鋳鉄製大砲で一番古い銘の入っているのは明の「洪武十年」(1377年)といわれる。ちなみに火薬は唐時代に中国で発明され、硝石、硫黄、木炭からなる黒色火薬とされる。
 さて、日本では室町時代から江戸時代初めの間に石火矢(大砲)が用いられた。外国から輸入した南蛮砲(鋳造砲)、日本人の石火矢師による鋳造砲、日本独自の鉄製砲があった。日本に現存する最古の大砲は靖国神社に収蔵されており、「慶長十六年堺鉄砲鍛冶芝辻理右衛門」との銘がある。慶長16年は西暦1611年である。これは徳川家康の命で造られたとされ、大阪夏の陣でも使われたといわれる。
 脱線しついでに、先ほど写真にあげたエジンバラ城を見学したときのことを思い出した。セントアンドリュース経由のバスでエジンバラ着いたのは夕刻であった。血なまぐさいスコットランド王室の古い歴史を秘めて、夕日を背にして丘上に立つ城のシルエットは、もの悲しくも美しいものであった。翌日その見学に出かけた。民族衣裳のタータン・キルト(スカート)姿の衛兵が門前に立っている。あのチェックのデザイン、つまり色合いや織り方、その組み合わせなどは各クラン(部族)、たとえばマック・ウェーン一族とかバーンズ一族とかそれぞれ伝説的に固有のものであり、一見してわかるそうである。
 ところで、その日も観光客が多く、次々と珍しい姿の衛兵の側に立って並んで記念撮影していく。偶々ある愉快なお国柄の一団がにぎやかにやってきた。その中の2人の娘さんが、いたずらっぽい笑顔で衛兵を中にしてポーズ。「チーズ」。パチッ。その瞬間、片方の娘が衛兵のキルトの裾をつまみ上げたのである。周囲がドッと沸いた。珍しく太陽がまぶしい午後だった。

鉄のつくり方
 古代人の原始的な方法は土で窯を築き、底に薪を敷きつめ、その上に鉄鉱石を置き、横孔からフイゴで休みなく送風すれば、赤熱された鉱石の表面から徐々に溶けて溶鉄が滴下して底に溜る。窯が冷却するのを待ってこれを崩し、固まった鉄を取り出す方法によったとされている。15世紀頃には連続して製鉄できる溶鉱炉の原型が出来上がってきた。その頃は木炭を燃料としている。ところでイギリスでは次第に木材が不足し、エリザベス女王時代に伐採禁止令まで発布された。木炭の代りに石炭を使ってみたが成功していない。1621年に石炭を蒸し焼きしてコークスにすることが発明されて、やっと製鉄法の近代化の基礎が固まった。ところで、鋳鉄の鋳造には連続して大量の溶湯(溶けた鉄)は必要なく、製造する品物に応じて鋳型を用意し、必要なだけの溶湯があればよいわけである。そこで溶鉱炉から出た溶湯を小塊(なまこという)に固め、適宜再溶解して鋳型に鋳込む。この溶解炉のひとつがキュポラである。立型円筒形の筒状で、コークスを燃料としてなまこを溶かすのである。(キュポラの語源は円塔を意味するKuppel)。

(茶話)「キュポラのある街」
 ご年輩の方は、昭和37年に「キュポラのある街」という映画が封切られたことを覚えておられるかも知れない。世の"サユリスト"ならずとも忘れ難い映画であった。黒煙とともに赤い焔をメラメラと吹き上げるキュポラは、日本の戦後復興の、それに続く高度成長の象徴のひとつでもあった。当時の若い現場の鋳造技術者にとっては、キュポラのあの赤い焔、出湯口からほとばしり出る赤熱の溶鉄、飛び散る汗玉(かんだま、こぼれ散る溶鉄の小滴)を見れば、血湧き肉踊るのを覚えたものであった。"やけど"などはちょっとした勲章みたいなもの。現代では時間当たり100トンの溶湯を造り出す巨大なキュポラも活躍しており、黒煙も粉塵も出ず、大気を汚すガスも出さないクリーンシステムに変革されているが、鉄を溶かす基本原理は今も昔も変わらない。
現存する最古の鋳鉄管
 フランスではルイ十四世の時代にベルサイユ宮殿が造営された。そのとき15マイル離れたポンプ場からベルサイユまで鋳鉄管を布設して、宮殿と街に水を送った。その水道が現在も残っており、大庭園に噴水を吹き上げているすばらしい景観を見ることができる。
 昭和45年に私は現(株)クボタ教育センター社長の長尾正三氏と2人で世界の鋳鉄管を尋ねて55日間世界一周の旅に出た。その途次フランスの片田舎ナンシーという町にある「鉄の博物館」で偶然にも、最初のベルサイユ工事に使用され、最近一部掘り上げられた管が保存されているのをこの目で確かめたことがある。写真はこのときに撮らせてもらったものである。
 1664年から1668年にかけてフランスで鋳造されたもので、管長3.5フィートのフランジ管であった。口径は各種あった。最初に埋められた残りの管は今なお健全に機能を果たしている。
写真2 ベルサイユ水道に使用された
1664年製鋳鉄管
(茶話)ローマとポンペイの古代水道
 先年イタリアを一周したことがあった。職業柄ローマの古代水道遺跡の一部と、ポンペイ遺跡の水道を見て、人智の偉大さに今さらのように驚き、先人の偉業に打たれたのであった。
 多言を要しないが、ローマにはBC300年頃からAD220年頃までに10指に余る古代水道が造られた。たとえば市の中心から地下鉄に乗り、20分足らずでギリオ・アグリコ駅で下車、15分も歩けば容易にクラウディウス水道の遺跡に行き当たる。


写真3 クラウディウス水道の遺跡
 2000年も前によくこれだけの大構想が生まれ、よくもこれだけの大工事が遂行されたもの哉。
 一方ポンペイは、今さらいうまでもなく、AD79年のベスビオの大噴火によって埋没した街であり、今日もなお発掘調査が続けられている。石畳で完全舗装されていた四方八達の道路下の諸処に露出している鉛管や分岐、浴場への配管、各戸の屋根から地下の水瓶に天水を導く土管など、現代を裏返しに再現して見せているような都市構造とその水道施設はまったくすばらしいとの感銘を受けた。

写真4 ポンペイ遺跡に見る水道管


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