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鋳鉄管からダクタイル鉄管へ

第2章 日本における鋳鉄管の黎明期(明治時代)
1.ガス燈
 暮れなずむ頃、ガス燈のある街をそぞろ歩けば、やがて港の街角や橋の辺りにほんのりと灯がともる。そのとき、旅人の心はなごみ、ロマンチックな想いに誘われたりする。
 さて、明治5年のこと。新橋一横浜間に鉄道が開通した。その同年の同じ頃、横浜の街頭にガス燈がともされ、沿道の夜が賑わった。これが日本におけるガス事業としてのガス燈の嚆矢とされる。実業家高島嘉右衛門氏の偉業であり、さすがハイカラな港町のことである。
 「瓦斯燈萬華鏡」によれば、点灯の日には、まるでお祭りのように遠近の人々が集まった。中には、青白い奇麗な火を見て「これはキリシタンの魔法だ。土の下に鉄の管を引いて、その中を魔法のガスが通るというから、異人と戦いでもあると一度に□を開けて、日本人を皆殺しにするつもりかも知れない」などといいふらす人もいたという。人々の喜びと驚きの様子が目に浮かぶ。
 ちなみに、土の下でガスを導いたのは8インチの鋳鉄管であった。
写真5 横浜のガス燈(当時のものを復元して
山下公園に移したもの。東京ガス提供)
2.横浜の近代水道
 明治20年、ついに日本にも近代水道の幕が明けられた。この年、横浜で給水が始められたのである。市民はどれほどこのときを待ち望んだことであろうか。コレラの恐怖も去り、水汲みの重労働からも解放される日がやってきた。
 引き続き函館、長崎という順に開港都市での給水が始まった。だが当時使用された鋳鉄管は、イギリスやベルギーからの輸入品であった。
 なお、昭和62年には、近代水道100年を祝って盛大な記念行事が行われた。
3.鋳鉄管の国産化
 明治24年に起工した東京市水道では、第一期工事計画だけでも2万1000トン強というきわめて大量の鋳鉄管が使われることになった。当時、これだけのものを輸入するとなると、大金が海外に流出することになる。そこで輸入か国産かで激論が闘わされた。結果は国産育成派が勝ち、明治26年、東京月島に日本鋳鉄合資会社が創立された。著名な学者・技術者を集めて発足し、早速に東京市が計画する水道の鋳鉄管の全量を受注した。
 ところが、いざ製作にかかってみると不良品が続出してなんともならず、ついに破産してしまった。市側では多大な迷惑を蒙った末に、やむを得ず途中で輸入に切り替えざるを得なかった。
 一方、明治25年に起工した大阪市水道では、殖産興業の見地から国産鋳鉄管を使用することに決め、大阪砲兵工廠に2万トンの鋳造を付託した。砲兵工廠には大砲などの生産設備もあったからである。
 しかしながら鋳鉄管の生産は初めてのことであり、たまたま日清戦争勃発の影響もあって、思うように進まず、結局目標の半分を輸入に切り替えた。
 その頃、大阪で「はかり」の部品を鋳造していた久保田権四郎氏がいた。氏は明治26年に独力で鋳鉄管の試作に取り組み、ようやく明治30年に3〜4インチの直管の鋳造に成功している。これを契機として、当時澎湃として起こってきた各地の水道およびガス事業の需要に応えられるようになり、順次国産品が普及してきた。
 明治42年には、大阪市が国産の48インチ大口径管を採用している。
 一方、明治42年には栗本勇之助氏が大阪に合資会社栗本鐵工所を設立し、鋳鉄管の製造を開始して今日の隆昌を築いている。
 そのほかに明治30年頃から大正時代にかけて、日本の各地で鋳鉄管を手がけた会社が数多くあり、興亡変遷を激しく繰り返したが、ほとんど成功しなかった。その理由は、製品が薄肉である上に、水圧に耐えねばならないので、技術が未熟であれば、徒にオシャカ(不合格品)の山を築くことになり、少し調子が悪ければ数量が多いだけにたちまち赤字が累積することになるからであった。
写真6 大正博覧会(大正3年、東京・上野公園)で金賞を受けた久保田鉄工所製60インチ鋳鉄管
(茶話)お釈迦様でもご存じあるめぇー
 鋳物師は不合格品のことを「オシャカ」という。お釈迦様がなぜ不合格品の代名詞になるのか?不思議でならず、先輩諸氏に聞いても解せないままだった。ところが最近になって阿刀田高さんの書いたものの中にこんな話が載っているのを見た。
 焼きものをするとき、火が強すぎるとうまくいかない。失敗作を眺めながら職人は“火が強かった”と反省する。この“火が強かった”という呟きを江戸っ子が発音すると「四月八日だ」に聞こえる。
 四月八日は、ご存じ花まつり、お釈迦様の誕生日。そこから駄目になったときには「オシャカ」になったというのだとか。
 ご自分が不良品の代名詞になっているとお聞きになれば、お釈迦様はどんなお顔をなさることだろうか。


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