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鋳鉄管からダクタイル鉄管へ

第3章 大正時代から昭和初期にかけての鋳鉄管
1.上水協議会規格の制定
 大正時代に入り、3年には第一次世界大戦が勃発したが、国内的には好景気が続き、上水道の建設も順次地方都市に及んだ。この傾向は昭和の初期も続き、鋳鉄管では一部海外まで輸出するに至った。ちなみに国内の給水人口の割合は、明治未に9.8%であったものが、大正15年には20.7%にまで倍増している。
 大正3年(1914)10月には上水協議会によって初めて統一規格ともいうべき「水道用鋳鉄管仕様書標準」が制定された。その主な内容は、口径3〜42インチ、継手はソケット形とフランジ形の2種類、抗張力は18,000ポンド/平方インチ以上とされた。いわゆるインチ管規格である。明治当初、ヨーロッパからの輸入品はインチ管であった慣例にならったものであろう。
 大正13年(1924)国の方針に従ってメートル法が採用され、口軽75〜1500mm、抗張力12.5kg/mm2と置き換えられ、いわゆるミリ管時代に入った。しかしすでに埋められているインチ管と新しいミリ管の接続には当分トラブルは避けられなかった。

(茶話)ウンブランの泉
 しばしの余談を。
 ジャワ島の東端に近く、スラバヤという市がある。当時人口200万人を超えるインドネシア国第二の大都市である。ここからはブロモという標高2400mばかりの秀麗な姿の火山が望見できる。その山麓の懐深く、スラバヤ市から約70km、車で1時間半ほど入った所にウンブランという泉がある。泉といっても大変なもので、1日43万m3もの清澄な水が湧き出るのだから、ちょっと想像し難いほどのものである。
 湧水の一部は古くからスラバヤ市の水道水として利用されている。ところが近年人口膨張が続き、水需要が増大する一方なので、もう1本の導水管を緊急に新設しなければならない必要に迫られた。
 私は昭和57年にその調査のためにこの泉を訪ねた。欝蒼たる森の緑とカラフルな花々に抱かれた泉のほとりに佇めば、わが身はあたかも仙境にあるかのような不思議を覚えた。人のよさそうな番人の案内でポンプ室へと下り立って驚いた。黒光りしている配管には、なんと1931(久)400との鋳出しがきわめて鮮明である。昭和6年に鋳造された鋳鉄管!赤道を越えて遥か彼方の島の山奥に、50年間黙々と・・・。「ご苦労さんでした」。私は管をなでながら心の中で話しかけた。「まだまだ頑張るさ」との答えが返ってきたような、いいしれぬ感動に打たれたのであった。
 ちなみにクボタでは、大正6年(1917)にインドネシアに2000トンをはじめ、その後数度にわたって鋳鉄管を輸出しており、また、オランダのロッテルダムなど欧州市場にも販路を拡げている。
写真7 スラバヤ・ウンブランポンプ場
写真8 今も働き続ける昭和6年製(久)
口径400mm鋳鉄管
2.高級鋳鉄管の開発
高級鋳鉄管

 世界に眼を転ずれば、第一次世界大戦(大正3〜7年)末期、ドイツでは鋼製の砲弾が間に合わなくなってきた。これを急ぎ補充するために、大量生産できる鋳鉄に目をつけ、鋳鉄の強力化研究に総力をあげた末、「強力鋳鉄」を開発して砲弾の製造に利用した。
 このことがきっかけとなり、戦乱が収まったあとも世界列強は兵器の高度化、大型化を競うようになった。特に鋳鉄はあらゆる兵器や産業機械の基礎素材でもあったため、世界の冶金学界で鋳鉄の性能向上の研究熱が高まった。特にドイツ、イギリスそれに日本では著名な学者が成果を挙げ始めた。
 日本の鋳鉄管の分野では、実はそれまでは脆いという短所があり、これをなんとか改善したいというのが、水道界あげての悲願であった。
 そこで関係者の間では、世界の趨勢に遅れまじと鋳鉄の強力化を大いに研究した。その結果ようやく昭和初年頃から成功をおさめつつあった。そして昭和5年には高級鋳鉄管を生み、8年には日本水道協会の「水道用高級鋳鉄管規格」として結実し、従来の管の脆さが改善され、内庄、外圧に対する安全性が向上された。具体的には、従来の上水協議会規格では鋳鉄管の抗張力は毎平方ミリ当たり12.5kgと決められていたものを一挙に25kgへと上げることができた。
みみずと菊の花
 では高級鋳鉄管と従来の普通鋳鉄管ではどう違うのか、技術の中身はどうなのか。やや難しい話になるが、のちのダクタイル鉄管の秘訣にも関連してくるので、多少の説明を加えておきたい。
 普通鋳鉄管は、キュポラで銑鉄単身を溶解していた。その場合、できた管の顕微鏡組織は写真9のようになっている。
 白く見える基地(マトリックス)をフェライト組織という。その中にみみず状に黒く見えるのが黒鉛である。フェライトは元来、力が弱い。その上に黒鉛の形が大きく長い。黒鉛には強度はほとんどない。したがって全体的に力が弱いわけである。
 一方、高級鋳鉄管の場合、写真10の通りである。灰色に見える基地はパーライト組織という。パーライトはフェライトよりも強力である。しかも黒鉛の量が少なく、かつ形も小さい。ちょうど菊の花弁を一枚一枚ばらまいたようである。
 このように基地組織の違いと黒鉛の量および形と分散の仕方の違いが普通鋳鉄管と高級鋳鉄管の強度の差の原因をなしている。
 このような高級鋳鉄管を造るためには、キュポラ溶解の配合に不純物の少ない厳選した鋼片を加えるのであるが、その量の加減、それを溶解するための温度を高める技術、型への鋳込温度を上げて湯流れをよくする手段、炉や鋳物砂の耐火度の改善など一連の緻密な研究を地道に積み重ねたのであった。
写真9 普通鋳鉄管の組織(100倍)
写真10 高級鋳鉄管の組織(100倍)
3.遠心力鋳造の実用化
遠心力鋳造

 静置した型に溶湯を流し込む鋳造法に対して、遠心力を利用した鋳造法によれば、引け巣もなく効率も上がるはずだとの思想はかなり早くからあった。事実クボタでは明治36年からそれを試みたという記録が残っている。
 それによれば、まず中空円筒形の鋳型を造り、両端には把手を固定しておき、これを回転軸受に乗せる。円筒の一ヵ所にあらかじめ孔をあけておき、そこから溶鉄を流し込み、粘土です早く孔をふさぐ。両端の把手にかけたハンドルを懸命に手で回す。もういいだろうと頃を見はからって中を開けて見ると、兎の糞みたいにモロモロになっていて、とてもパイプとはいえない。何回やっても駄目だった。
 また、旋盤に型を取りつけて、回転させながら注湯する方法も試みたが、うまくいかなかったとか。
 今から思えば、実に幼稚というか滑稽かも知れないが、当時とすれば危険を伴う真剣な試みであり、まさに可能性を追求するの一念であったのであろう。
 かくて先人の夢は、昭和10年(1935)に現実のものとなって工業化をみるに至った。すなわち昭和7年「満州国」が誕生、国策に協力して昭和10年(1935)満州久保田鋳鉄管株式会社が鞍山に建設され、ここで日本最初の砂型遠心力鋳造が始まった。そして最盛期には1200人をもって月6000トンの生産を行っている。終戦後は中国に接収され、同国最大の鋳鉄菅生産の拠点として、いまだにそのまま生産が続けられていると聞く。
 ついで昭和15年にクボタの武庫川工場において、砂型遠心力法で口径300〜900mm管が、同じく昭和25年に金型遠心力法で口径75〜250mm管が生産開始されている。
 遠心力鋳造法の特長は、管の組織が緻密で鋳巣がないこと、管長6mの長尺ものが鋳造できることである。(今では9m管まで可能)。さらにもうひとつの大きな利点は品質管理が徹底できることにある。


(茶話)日中技術交流
 昭和53年(1978)10月、中国土木工程学会の招聘により、日本水道協会名誉会員小林重一先生を団長に、日本下水道協会専務理事寺島重雄先生を副団長に、計8名の訪中団が17日間にわたり北京、西安、南京、上海を回り、技術交流を行った。詳細は日中経済協会から報告書が出ているので、ここでは省略する。時あたかもケ小平副首相が日中平和友好条約批准書交換のため来日された前後であり、中国でも友好的な雰囲気がみなぎり、その上、時候もベストシーズンであったこともあって万事めぐまれた旅であった。
 当時中国では国を挙げて4つの近代化に取り組んでいた。農業、工業、国防、科学技術である。交流会を通じて感じた限りでは、自力更生を貫く精神と新技術を吸収しようとする強烈な意欲がひしひしと追ってくるような印象に打たれた。
 さて鋳鉄管に関連する一部にちょっと触れてみよう。水道管の主流はやはり鋳鉄管であったが、どこも普通の印ろう形鋳鉄管であり、ダクタイル鉄管はまだなかった。鋳鉄管の製造工場は北京、上海にもあるが、主力は鞍山工場であるとのこと。(終戦時に満州久保田鋳鉄管(株)を接収したもので、その後もそのまま稼働させている)。上海鋳鉄管工場では水冷銅鋳型による立型半連続鋳造方式で小菅を製造していた。ソ連から持ってきた技術らしいが、まだまだ問題ありとのこと。ただ感心したのは取瓶の扱いから鋳造機の運転まで女性がやっていたことで、当時の日本ではまずないことだろうと思った。中国では男女を問わず同一労働同一賃金で、働ける者はすべて働くのが原則だから当然のことなのだろう。
 もうひとつ。西安(昔の長安)で、あまりの懐かしさに胸が熱くなる思いをしたことだった。それは技術交流会が終わった直後、私とほぼ同年輩と思われる一人の技師が近寄り、「高級鋳鉄管規格、昭和8年印刷、久保田鉄工所」なる古びた藁半紙刷りの規格書を取り出され、「その後も変わっていないか」と質問されたことだった。パラパラとめくって見ると、旧漢字と片仮名文字とむずかしい文章の、まぎれもない鞍山当初の規格書であった。


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